マクロビオティック再考

 

チョウのマクロビオティック

 


庭に小さなエノキが一本生えているおかげで、素敵なチョウが時々飛来します。



  ゴマダラチョウ



普段は、木の梢の高いところを素早く飛び回っているので、よほど関心がないと、一般の人の目には触れないですね。



以前は本州に生息していなかったアカボシゴマダラも最近は来るようになったし、



ごく稀にテングチョウも……



マニアでもない限り、ご存じないでしょう?



東京23区内にだって、こういう珍しいチョウがいるんですよ。



あと、そのすぐ横にサンショウの木もあるので、アゲハチョウの仲間(ナミアゲハ、クロアゲハ、カラスアゲハ)もやって来る。



上の写真は、ついこの間、産卵にやってきたゴマダラチョウです。工房の窓からその姿を発見して、あわててシャッターに収めました。たくさん撮ったけれど、ほとんどブレた写真ばかりでした。手が震えていたんです、こんな場面に遭遇できた感激で……。緑色の球状の卵を産んでいました。



国蝶のオオムラサキだったらご存知ですか? 美しいチョウですよね。こういう羽のデザインにどういう必然性があるのでしょうね。私には神様のお遊びにしか思えません。素晴らしいアートですね。「進化」だけでは説明不可能な何かが絶対ありますよ。このオオムラサキはゴマダラチョウと幼虫の姿はそっくりで、同じエノキを食べるので、言ってみれば親戚です。羽のデザインも似ているでしょ?



でね、



我が家のすぐ隣りの武蔵関公園にもエノキが茂っているので、そこにもゴマダラチョウが産卵に来ているはずなんです。



ところが……。



ゴマダラチョウの幼虫は、冬になると落ち葉の中で落ち葉と同じ褐色に染まって年を越す。これはまずい。



この公園は管理が行き届いていて、根元に散った枯葉は全部掃き集められてどこかへ処分されちゃうんですよ。



ああ……。



だからね、せめてうちの庭だけでも、掃き掃除とかせずに、枯葉をそのまま積もらせておいて、ゴマダラチョウたちにナチュラルな環境を提供しておきたいんです。



そんなわけで、うちの庭は草がボウボウです。傍目にもだらしない庭です。やぶ蚊もいっぱいいますわ。



   *



さて、チョウという動物はマクロビオティックでは、どう理解すればいいのでしょうね。



チョウの幼虫を見たことありますよね。アオムシ。細長くて、青くて、フニャフニャに柔らかい。動きも鈍いですな。……とすると、動物としては典型的な「陰性」な存在に見える。生の青い葉っぱばかり食べているから、陰性に決まっているじゃないか……と思いますか? ローフードではやっぱり陰性になるんだよ……と思いますか?



でも、蛹の期間を経て羽化した成虫は、全然違いますよね。



いや、成虫の話をする前に、アオムシが青いのは、これはカモフラージュなんですよ。だからゴマダラチョウの幼虫は冬になると、枯れ草と同じ褐色に化けます。色で判断すると間違えますよ。



それに、飼育してみると分かりますけれど、幼虫は生の葉っぱしか食べません。加熱調理した葉っぱなんか、無理に食べさせても死んでしまいます。



さて、羽化したチョウ……



かつて大森英桜先生は、飛翔する動物は、その高い運動能力から飛翔しない動物よりも陽性な位置づけをしていた。鳥は非常に陽性な動物であると……。



何となく分かりますね。かつて人間も鳥のマネをして飛ぼうとしたけれど、結局成功したのは、動力エネルギーの導入以後だった。人力では飛べなかった。そう考えると鳥の運動能力は大したものだ。確かに陽性なのかもしれない。だったら、チョウはどうですか?



チョウの飛翔能力はすごいですよ。中にはモンシロチョウのようにヒラヒラと優雅にか弱そうに飛ぶ種類もいますけれど、これも我が家に飛来したことがあるチョウでアカタテハというのがいるんですが、これがすごい。「あれ? 今黒いものが前を横切った?」みたいな感じで、目の前を飛んでいても気がつかないぐらいに素早い。一瞬目に止まったかと思ったら、次の瞬間には20メートルほど離れたところにいる。スズメより速いので、熟練したマニアでも捕獲できない。アカタテハの英名は「Indian Red Admiral」つまり「海軍提督」。ほんとそんな感じです。



それに、有名な話では、世界中に分布しているヒメアカタテハは、アフリカ大陸からヨーロッパへと、集団で地中海を渡るんです。手塚治虫の「ジャングル大帝」にもそんな場面がありました。あの小さい体で、それはそれは大したエネルギーではありませんか。



いったい、チョウたちは幼虫から蛹を経て成虫になるまでに、何があるんでしょうね。陰性かな? と思っていたら、陽性の極致のような存在に生まれ変わる……。蛹の期間に一体何が起きているのでしょうか? 蛹の期間、彼らは何も食べないのですよ。陰極まって陽? 時間の陽性? そんな説明でいいんでしょうか? 時間は誰に対しても等しく経過します。



自然界のこういう事例を思うと、私は陰陽判断というものに危うさを感じてしまうのです。



   *****



もうすぐ、9・11から10年なんですね。



でも、あの事件は、海の向こうの出来事ということもあるし、あの頃を振り返ろうとしてみても、結局それよりさらに10年前の父のことを想い出したりするんですよね。



父が宇都宮の「栃木がんセンター」で亡くなったのは、小麦の館をスタートさせた翌年。医者はそうは言わなかったけれど、死因は院内感染だったんでしょうね。ほんの数日前まで、普通にしゃべっていたんです。それが、トイレに入ったら突如激しい下痢が始まって本人も驚いたと言っていた。



病院から自宅まで、父の亡骸は、葬儀業者の普通のハイエースで、まるで荷物を運ぶように運ばれた。もちろん運転はすごく慎重だったけれど。



車から降ろして自宅に運び込む時、葬儀業者の人と、仙台の叔父と、私と……、確か四人ぐらいで運んだんだけれど、それはそれは重かった。父の身体……。



ある宗教者が言っていた。人は、何かの思いを抱えたまま死ぬと重いんですって。何も思い残すことなく幸せに亡くなった人は軽いんですって。ああ、そうかもしれないと今も思いますよ。



だからあれから20年経っても、夜中一人で工房で作業をしながら、父のことを考えたり、父に話しかけたりするんです。今の自分のことを聞いたりもするんです。きっと父は呆れているでしょうね。瓢箪から駒みたいにパン屋を始めたことも……、いつまでも独り身で何をやっているのかと……。



病院のベッドで亡くなったあの瞬間は、私には何の感覚もなく、悲しくもなく、涙も出なかったのだけれど、その代わりというか、いつまで経っても、これから先も父と対話を続けるのではないかと……。



   *****



大きなニュースになったが、アメリカApple社のスティーブ・ジョブズがトップの座を退いた。



飛び交っているいろいろな情報から判断して、健康問題が引退の動機のようには思えない。だいたい彼は生きることに執念を燃やし、やりたいことには死ぬまでとことんしがみついていくタイプの人間ではなかろうか。



引退の本当の動機は2つ考えられる。



ひとつ目。直近の状況に何らかのアクシデントか変化があり、その結果、Appleの株主への配慮が必要となったか、または一種の経営戦略がなされたのではないか。



ふたつ目。本当にジョブズがいなくなった時のための予行演習ではないか。自分がいないAppleがどういうふうに動くのか、彼はそれを確かめてみたいのではなかろうか。そして、どうすることが「理想的な継承の方法」なのか、方法論を完成させたいのではなかろうか。あるいは、その方法論がすでに完成しており、「継承プログラム」の実行中なのかもしれない。



そんなふうに考えると、このニュース、世間が思っているほど大きなニュースではないのかもしれない。




常識にとらわれないものを当たり前のように産み出し続ける会社は、そこにいる人々は、組織のあり方も「Think different」(※)でなくては居心地が悪いのではなかろうか。かの人々に関しては、そういう視座で理解する必要があると思う。



(※) ジョブズがApple社に復帰する1997年までのりんごのロゴマークは虹色のデザインだった。その色の配列が一般的な「赤橙黄緑青藍紫」とは違っているが、見た目は、なんら不自然ではない。これは「Think different」な、つまり既成観念にとらわれない自分たちのありようを表現していると言われる。このリンゴマークの右側が食べられたように欠けている。「かじる」という意味の「バイト(bite)」と「情報量の単位」の「バイト(byte)」をかけているそうだ。ちなみに「マッキントッシュ(Macintosh)」というのは、りんごの品種名「McIntosh」に由来し、アメリカのスーパーならどこでも売っている野生に近い小さな可愛い品種だそうだ。




彼をめぐる情報に接していて、ひとつ分かることは、人は痩せると周囲を心配させるということだ。「恰幅が良い=健康」という勘違いがいまだに世間の常識であるように見える。



自然医学の森下敬一先生によれば、人は痩せた時、自然治癒力が最も高いレベルで発揮されるという。



痩せている事自体は悪いことではない。



   *****



それより問題なのはGoogleではなかろうか。もしかしたら、今、正念場に差し掛かっているのかもしれない。



モトローラの携帯メーカーを買収したことで、業界が動揺し、世間はさまざまな憶測を試みているが、これはGoogleという会社の存在自体の矛盾のあらわれなのではなかろうか。



どういう矛盾か……?



Googleはさまざまなソフトウェアを無料で提供している。この会社は「情報は無料である」ということを無意識に理解しているのだ。



情報は無料である――私はそう考える。というか、この方向にしか情報社会の未来はないと思っている。



新聞が一部100円だったり、新書本が一冊800円だったりするのは、あれは、情報の値段ではない。



逆のことを想像してみれば分かる。もし情報が有料であったとしたら、何が起こるか?



たとえば、極端な話に聞こえるかもしれないが――



「おまえ、今、俺の顔を見ただろう? だったら、金を払え」



――みたいな状況が、そこかしこで出来することになるのだ。著作権・肖像権と言ったものが暴走すると、こういうおかしな状況が発生する。



世の中に、有料の情報と無料の情報と、二種類あるとするなら、それはどこで区別するのだ?



情報を無料にしないと、社会が大混乱を来す。いや、すでに今の世の中、著作権の問題でも大混乱を引き起こしつつあるではないか。



しかし、Googleは何をやっている会社かというと、情報ビジネスの会社なのだ。結果、この会社は広告収入以外の収益源のめどが立たずにいる。これは相当深刻な矛盾ではなかろうか。



この矛盾を解消するためには、結局「物」を造って売るしかない。あるいは、「ワークショップ」という言い方があるけれど、身体を動かして仕事をするんです。本当にお金を動かす資格があるのは、働く人たちだけです。



Googleについて言えば、自社で携帯端末を造って売り始めても不思議ではない状況なのではなかろうか。



お金とは、労働の対価である。



世の中には「市場相場」というものもあるけれど、それは一種の「揺れ幅」に過ぎない。価値を生み出すのは最終的には人間の労働だけなのだ。



マルクス主義の基本原理だけれど、これは今も生きていると思う。



→ 目次ページ(アーカイブ)へ



Copyright ©  Komuginoyakata Inc. All rights reserved.

 

2011年8月31日 12:14

 
 
Made on a Mac

次へ >

< 前ヘ